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トップ > ASCA > 連載 > 展評 「現代芸術展 論」 1.美術との架け橋・・・『毛皮のマリー』に欠けたもの

「現代芸術展 論」---「場」を捉え直す
1. 美術との架け橋・・・ 『毛皮のマリー』に欠けたもの

 『毛皮のマリー』というタイトルの公演を見た(2001年 5月13 日、於:福島郡山市民文化センター) 。初演は、寺山修司が主催した演劇実験室「天井桟敷」の第3回公演として、1967年に新宿アートシアターにて上演されている。もともと『毛皮のマリー』は寺山修司が美輪明宏のために書き上げたという伝説的な名作である。寺山修司氏と美輪明宏氏とは歳も同じで、「一卵性双生児のように」、映画や音楽でも同じような作品に触れて育ってきた。初演以来、今回の公演が5度目の再演となるが、これまでの過去の再演を評価しつつも美輪氏は、「どこか“違うな”というの思いで、(構想を)暖めていてきた」という。そこで今回の『毛皮のマリー』は美輪氏本人の演出により初めて上演されることとなった。

 今回の『毛皮のマリー』は美輪明宏が演出だけでなく美術も担当した。衣裳デザインは、ワダエミ氏(彼女は黒澤明の映画「乱」で衣装を担当し、アカデミー最優秀衣裳デザイン賞を受賞した方)である。なお初演当時を振り返ってみると、美術を横尾忠則氏、衣装をコシノジュンコ氏が手掛けていた。ちなみにこの当時、横尾忠則氏が手がけたポスターや舞台美術が多く見られる。例えば横尾忠則は、土方巽の舞踏公演や唐十郎の劇でも公演ポスターを制作している。土方巽は寺山と同じ東北出身(土方は秋田、寺山は青森)の舞踏家である。唐十郎は、寺山修司と同時期、状況劇場、紅テントで活動した劇作家、役者である。唐十郎手がける劇には小林薫、根津甚八、四谷シモンがいたり、また土方巽の周囲には美術家の中西夏之、写真家の細江英公、舞踏家の大野一雄、さらに三島由紀夫などがいる。三島は、美輪明宏や横尾忠則とも交遊のあったことは周知のことであろう。1970年代頃のを俯瞰すると、演劇や舞踏などの舞台を介して、様々な芸術ジャンルの密月が、頻繁になされていたことがわかる。今見ると蒼々たるメンバーであるが、彼らの激しい動きが後の時代を作ったともいえよう。

 では具体的にこの演劇作品はどのような内容なのか。少し掻い摘んでみたい。美輪の演ずるマリーという美貌の男娼には、美少年の子どもがいる。この美少年役を演じたのは今回が初舞台となる及川光博。(『毛皮のマリー』は毎回、美少年役に注目が集まってきた。最近では、いしだ壱成や武田真治がこの美少年役を演じてきた。いしだにとってはこの舞台がステージデビューで、その後、テレビでも広く活躍するようになった出世作)。この美少年は、屋敷のなかでマリーに放たれた蝶を、トンボ編みで追っかけて捕るような生活を毎日繰り返している。文字通り温室育ちの子である。マリーに外界に出ることが許されていないため、全く外の世界を知らない。

 ところでマリーは実際は男性である。では男性であるはずのマリーになぜ子どもがいるのか。美少年とマリーとの関係は? 劇中、その背景が語られる。

 自分以上の素敵で完璧な女性的資質を持ったマリーに嫉妬した女性がいた。彼女は大勢の人のなかでマリーが実は男であると暴露し、嘲笑した。それを恨みに思ったマリーは、ある男性を挑発した。その時の事件で生まれた子が、実は美少年なのである。結果、マリーと美少年を通して、壮絶な近親愛と憎悪を物語は繰り広げていく。

 マリーは劇中、子どもに対する憎悪の思いを語っていたが、その後、子どもが家を出、自分の身辺から離れたとき、はじめて「欠けたもの」の重要性に気付くことになる・・・。

 おそらく原作者の寺山修司は、「マリア」という言葉をキーワードにして、この「欠けたもの」を作品の主題としているように思われた。美輪明宏の演じるマリーは、自らを肉体的にも精神的にも女性以上の女性になろうとした男性である。そして彼(彼女)は様々な男性を家に連れ込み、その男性により理想的な男性像を求め、互いに愛しあうことで自己の存在を確認しようとしている。しかしマリーが完全な女性(彼女)になろうとしたとき、そこには唯一欠けているものがあろう。それは女性であると同時に母であることだ。

 劇の公演ポスターからも察しられるように『毛皮のマリー』は、キリストの母親、マリアのメタファー、隠喩であるようにも思える。マリアとその子、キリストとの関係を、「毛皮のマリー」と重ねてみることができる。

 マリアは夫、ヨセフと結婚する前、処女で懐妊した。つまり異性との肉体的な接触なしにキリストを身ごもったわけだ。「肉体と精神」という西欧的な二元論的な考え方があるが、この肉体を超えた精神的な産物としてキリストは誕生した。そのことを聖書では「受胎告知」のテーマで象徴している。

 原作者の寺山修司が、「マリア」という言葉をキーワードにして、この欠けたものを作品の主題としていることはまた、例えば寺山修司が生前よく語っていた<対象>とも符合する。寺山の出身地、青森には、キリストの墓と呼ばれる遺跡があるということではなく、マリアの受胎告知のテーマは恐山にいるイタコと呼ばれる人々の存在と重ねられるからである。イタコは一般に目が不自由な人達である。彼らの中には霊界と交流するため、自らの視覚的な能力を恣意的に失った者もいると聞く。「欠けている」ことが霊界との交流を可能にするからとも言えるであろう。

 近年、『五体不満足』という著書が話題になった。仙台に行くと仙台四郎という人物の写真や絵姿が、お守りとして販売されている。日本の伝統的な文化は、西洋の美術作品が描いてきたような完全調和的な「美」ではなく、「欠けていること」によって得られる大事なものがあることを、伝えてきた。実際、縄文土器、土偶に作られてきた人物像は、「宇宙人」よりも、『五体不満足』や『仙台四郎』のような人物をモデルにした作品であるという説もある位だ。

 寺山は、日常一般的な人々と違った、様々な形、姿をもつ人々が、同時に特殊な能力をもっていることを想定し、寸劇や論文を作成していた。実際、『毛皮のマリー』にも、下男や、醜女のマリー役である大駱駝鑑で活躍している麿赤兒が、独特な風貌で重要な役周りを演じている。

 このような寺山の作品を、現代日本の文化と重ね合わせてみよう。日本の文化に「欠けているもの」は何か。寺山氏が提唱した「欠けているもの」を逆に壇上に上げたとき、異集団とのコミュニケーションの問題が浮上してくる。それはマリアーの毛皮のように、他者を暖かく包容する意志が問われてくる。

 

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